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アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか

このなかで紹介されている
「真性同期」「選択同期」「擬似同期」
という考え方がおもしろかった。
以下、おおざっぱにまとめると、
セカンドライフは「真性同期」。
ユーザが本当に同じ時間を共有するから。

ツイッターは「選択同期」。
独り言に対して任意の時間に相槌を打つから。

ニコニコ動画は「擬似同期」。
あたかも同じ時間を共有しているように感じるから。
これを(なぜか)結婚生活に置き換えて考えてみると……
同居は「真性同期」。
夫婦が同じ場所と時間(愛?)を共有するから。

別居、週末婚(死語?)は「選択同期」。
任意の時間に夫婦生活(愛?)を共有するから。
じゃあ、擬似同期は?
バーチャルな「俺の嫁」とか?
たとえばゲームやDVDのなかでは、
「いつでも○○たんと会える」
といった状況は可能だ。
でも、そこで感じる萌え(愛?)は
擬似的な感覚にすぎない。
(単に相手が二次元だからってわけじゃなくて、
共有する時間が擬似同期でしかないという点で)
「俺の嫁」というジャーゴンがニコニコ動画で
よく使われるのは、ニコ動が「擬似同期」の
メディアであることと無縁ではないかも。

真性同期であるセカンドライフがはやらないのは、
現実の結婚生活(同居)の困難さと似ているなw
だからこそ「週末婚」なんてスタイルも提唱された
んだろうけど(定着しているかは別として)。
ちなみに、永作博美主演のドラマ『週末婚』は、
いま調べたら1999年放送だった。世紀末……

しかし、本当の意味での「愛」の「真性同期」は
不可能だもんなあ。愛し合うふたりが、完全に
同じ場所・同じ時間を共有することはできないから。
だからこそ、ひんぱんにメールのやりとりとかしちゃう。

『ほしのこえ』なんかは、この「同期」の感覚を
的確に捉えた作品だったのかもしれないな。
というか、SFは、「愛」と「時間」の問題をあつかいやすい
ジャンルだと思う。まさに、『愛に時間を』(ハインライン)だ。

JUGEMテーマ:読書
posted by: アダチアタル | 本の感想 | 19:51 | comments(0) | - | - |

「AURA」のこと――どりせんクラスの未来は群青学院かもしれない

過去にトラウマを持ち、最終的に「調停者」として
ふるまうのは、「CROSS † CHANNEL」の主人公・黒須太一も、
「AURA」の主人公・佐藤一郎も同じ。だが、「AURA」の場合、
「調停」する対象はレディス佐藤こと佐藤良子で精一杯だった。

「AURA」のラストのカミングアウト大会において、主人公の
クラスのほとんどが「邪気眼」持ちだということが明らかになる。
ということは、「一般人」をめざすメンズ・レディス両佐藤と、
「一般人」代表の大島さんのほうがマイノリティになってしまう。

「邪気眼」たちはメンズ佐藤の隠しきれないオーラに惹かれて
おり、いわばメンズ佐藤総受け状態なので、彼が「一般人」化
することを受け入れるはずがない。「邪気眼」たちにとっては、
メンズ佐藤を父、レディス佐藤を母、自分たちをその子として、
「聖家族」を形成することによって「楽園」が完成するのだから。
(その場合、どりせんは神となる)

よって、あの物語以降、メンズ佐藤はクラスの「邪気眼」みんなの
「調停」をして回らなくてはいけなくなるはずだ。しかし、それは
とんでもなく険しい道であり、結局はクロチャンの太一と同じく
「孤独」にならざるをえないのではないだろうか。

「AURA」のその後をシミュレーションした結果、主人公のあのクラスは、
クロチャンの舞台・群青学院化するほかないという結論に至った。
「ラーゼフォン」の綾人くんしかり、「調停者」の運命は畢竟「孤独」
に行き着くと思う。あそこまでいくといっそすがすがしいけれども。
はたして、メンズ佐藤にそれほどの覚悟があるのだろうか。

とりあえず、どりせんの人間力がどうのとかいってる
場合じゃないと思うぞ、メンズ佐藤。

 なにものかの崩壊や不在への「恐怖」のために、人は「治者」の責任を進んでになうことがある。しかし「治者」の、つまり「不寝番(ねずのばん)」の役割に耐えつづけるためには、彼はおそらく自分を超えたなにものかに支えられていなければならない。(略)
 しかし、あるいは「父」に権威を賦与するものはすでに存在せず、人はあたかも「父」であるかのように生きるほかないのかもしれない。彼は露出された孤独な「個人」であるにすぎず、その前から実在は遠ざかり、「他者」と共有される沈黙の言葉の体系は崩壊しつくしているかも知れない。彼はいつも自分がひとりで立っていることに、あるいはどこにも自分を保護してくれる「母」が存在し得ないことに怯えつづけなければならないのかも知れない。

江藤淳「成熟と喪失 ―猜讚瓩諒壊―」


JUGEMテーマ:ライトノベル
posted by: アダチアタル | 本の感想 | 06:16 | comments(0) | - | - |

「逆輸入型幼なじみ」について

本書の361ページから

大澤…オタクっぽい人たちの間で人気のアニメやマンガで、幼なじみの恋というのがやたら多いわけね。(略)
 まず、自分と宿命的に結びついている他者を見つけたいわけだけれども、自分の家族に対しては違和感がある。かといって自分になんの縁もゆかりもない人を宿命的だと考えるには、ちょっと無理がある。そのときに、自分の近所に暮らしていて、幼い頃から気がつかないうちに仲良くなっていた人に、自分との宿命的な関係というものを投影しやすいんだよね。

まあ、「血」や「地」に基づくナショナリズムの話題の一部なんですが。
しかし、昨今の幼なじみ事情(?)はもうちょっと複雑で……

まず前提として、高橋留美子先生の作品でたとえると、
「落ちモノ系」のラムちゃん(うる星やつら)と、
「幼なじみ」のあかね(らんま1/2)の、ふたつのヒロインの系譜がある。

で、「かんなぎ」や「ケメコデラックス!」に象徴されるように、
いまは「幼なじみ」よりは「落ちモノ系」が全盛……かと思いきや、
そう簡単には言い切れない。なぜなら、「かんなぎ」のナギも、
「ケメコデラックス!」のケメコ(の中の人のエムエム)も、主人公と
過去に「縁」があるから。どちらのアニメも、その「縁」を強調するように、
過去の「主人公の思い出」のシーンからはじまっていた。

「天然もの幼なじみ」に限定していえば、これはやはり冬の時代で、
「かんなぎ」のつぐみにしろ、「ケメコデラックス!」のイズミにしろ、
たぶんナギやケメコの当て馬で終わることは容易に想像がつく。
「紅」なんて、夕乃に銀子という極上の「天然もの幼なじみ」が
ふたりもいるのに、おそらく両者のフラグが立つことはない。

最近は、完全な「落ちモノ系」ヒロインか、「落ちモノ系」でありながら、
過去に主人公と縁があるという「逆輸入型幼なじみ」が主流だと思う。
(いったん九条院を経て帰ってくるタマ姉もある意味これ)
この「逆輸入型幼なじみ」的な想像力というのは、ピアノ・ファイアさんの
『ゼロ年代における「契約」から「再契約」の想像力へ』
における「再契約」という概念とも通じているような気がする。
ところで、こちらの記事でも『コードギアス』の谷口吾朗監督の名前が
あげられているけれども、同監督の『無限のリヴァイアス』では、
キャラクターの口を借りて、辛辣な「幼なじみ批判」が展開されている。

こずえ 「相葉兄弟の間をうろうろしてるあおいちゃんにはわかんないよ」

あおい 「あたし……」

こずえ 「兄弟仲良くしてほしいとか言って、どっちも欲しがってる」

あおい 「だって、そんなの、あたし、わかんないよ」

こずえ 「うそつきっ! ごまかしてるだけでしょっ?
わかるわけない、あんたは持ってないって思ってるくせに、
しっかり持ってる、なんにもせずに持ってる、
そんなあんたにあたしの気持ちなんてわかるわけない
、絶対にないっ」

あおい 「……ずっとそう思って」

こずえ 「全部じゃないけど、でもあんたはずるい、わかってないからずるい」

あおい 「……だって、祐希も、昴治も、私には」

おっと、朝倉南の悪口はそこまでだ、って感じですが。
これは、ハルヒに対する長門の鬱屈した感情(「涼宮ハルヒの消失」)
も似たようなものだと思う。幼なじみ(や「神」というポジション)
という「イージーな契約」にあぐらをかいている存在への、批判的感情。
ハルヒは「持ってないって思ってる」=「日常はつまらないと思ってる」
くせに、じつは「なんにもせずに持ってる」=「無自覚に神の力をふるう」。

これは確かに「ずるい」。だから『ハルヒ』が大団円を迎えるには、
ハルヒ自身が「神」であることを自覚する(「再契約」?)しかないだろう。
(ギャルゲーの「主人公」がそれを自覚する、みたいな話ですが)

ともあれ、結論としては、今後も当分「落ちモノ系」ヒロインと
「逆輸入型幼なじみ」がはやるだろうということ、
「天然もの幼なじみ」は冬の時代がつづくだろうということ、そして、
「かんなぎ」のつぐみちゃんは幼なじみぽっちゃりカワイイということである(ぇ



JUGEMテーマ:読書
posted by: アダチアタル | 本の感想 | 10:00 | comments(0) | - | - |

同人誌の隆盛こそが処女信仰を呼び覚ましているんじゃないか、という話

本書の110ページから。
北田……(略)誰々が誰々の何々を盗作した、ここが似ているとか、やたら熱く語る人たちがいる。考えてみればポピュラー音楽なんて限られたコード進行の組み合わせで作られるわけだし、詞に使われるボキャブラリーだって順列組み合わみたいなところがあるわけで、似た部分がどこかにあるのはそれほど珍しいことではない。この「どこか似ている」という構造的な宿命に対する許容度が、ネット的な言説空間ではどうも低くなっている気がする。
(略)若い人たちの間では、文化における複製可能性というのは与件として立っている。ところが、そういう人たちこそが「こいつはパクリだ」と非難している可能性がある。

これは実感としてよくわかる。たとえばこれを連想する。







この動画のうp主自身は、音楽における「複製可能性」を
強く自覚したうえで、JPOPサウンドの将来を憂いている。
しかし、安易に浜崎あゆみや倖田來未をパクリだと騒ぐ人が、
本当に心の底からそれが大問題だと考えているとはとても思えない。

これと同じ構造を、例のかんなぎ問題にも感じる。ナギ様が非処女だと
騒ぐ人が、エロ同人誌の存在をまったく知らないなんてことはないと思う。
エロ同人誌においては、いろいろとアレなことをさせられていると
知っていながら、いっぽうで原作においては処女であることを強要する。
これは、音楽がいくらでも複製可能なものであると知っていながら、
強いオリジナル信仰を抱く構造と、似通っているように思えてならない。
北田…(略)こういう「複製技術の発展とあいまったオリジナル信仰の上昇」という現象は、その成立規制において、先ほどからお話ししていただいている現代的なナショナリズムとよく似ているように思えます。

この「複製技術の発展とあいまったオリジナル信仰の上昇」は、
そのまま「エロ同人誌の発展とあいまった処女信仰の上昇」
置き換えても、まったくさしつかえないように思うw
しかし、冗談抜きに、エロ同人誌市場が爛熟した今だからこそ、
二次元ヒロインに処女性が求められている
のかもしれない。

ここでいわれている現代的なナショナリズムというのも、
「痛いニュース」なんかを見ていると非常によくわかる。
「なんとなく嫌韓」で「なんとなく嫌中」な「ネトウヨ」的な態度と、
かんなぎ問題で騒ぐ人は、精神構造的によく似ているんじゃないだろうか。

マンガのトレース問題にも同じことがいえると思う。
というか、「メガバカ全ページトレース事件」って、あれが確信犯なら、
マンガ界の「ソーカル事件」そのものだよな。(そんなわけないけど)

JUGEMテーマ:読書
posted by: アダチアタル | 本の感想 | 06:59 | comments(0) | - | - |

―お母さんになりたいオトコノコ― とらドラ 9 (9) (電撃文庫 た 20-12)

竹宮 ゆゆこ
アスキー・メディアワークス
¥ 536
※ネタバレを含みます



今回浮き彫りになった竜児くんの「母親越え」というモチベーション。
しかし、彼は「母親をこえる」ことと「母親になる」
ことを混同してるんじゃないだろうか。

実際、竜児くんは大河という「娘」を家に迎え入れ、料理・洗濯・掃除
をこなすことで、いわゆるステロタイプな「母親」を演じていた節がある。
ところが、「娘」大河の自立宣言によって、その関係はいちど壊れた。
そこへ来て、「本物の母親」であるところの泰子が「衰退」することで、
にわかに竜児くんの「母性」が肥大しはじめた。そうなると、あとはもう
自明の理で、ひとつの家にふたりの「母親」はいらない。
だから必然的に、竜児くんは家を出ざるを得なくなる。そして駆け落ちへ…

これは、すげーおもしろい。高橋留美子作品をはじめとしたラブコメの
ヒロインに見られる「母性の肥大」はすでに語られていることだけど、
とらドラの場合は、男の子の母性が肥大してる。竜児くんの家事上手は
単に「家事もこなせるオレかっこいい」とか、そういうレベルじゃなく、
(男性作家の書く「家事上手な主人公」はえてしてそうなりやすい)
ほとんどカルマといっていいほどにキャラクターと密接に結びついている。
いや、むしろそうしたキャラ設定がこの展開を導いたというべきか…

大河は、竜児くんにこれ以上「母親」を演じてもらいたくないからこそ
自立宣言したのだろうし、それに呼応するように大河の「本物の母親」
が今回の終盤で登場する。竜児くんが文字どおり「男」になることでしか
もはや決着はつけられないと思うのだが…その試練がどのようなかたちで
彼に降りかかるのか。徹底的に「父親不在」のこの作品でそれが本当に
可能なのかという点も含めて、次回に期待したいと思います。待ち遠しい。

JUGEMテーマ:読書
posted by: アダチアタル | 本の感想 | 18:21 | comments(0) | - | - |

AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~ (ガガガ文庫 た 1-4)

ビンビンきてるよ、
おれのウラハラ・センサーが!


というわけで、いまさらながら「AURA」を読んだわけですが。
まずウラハラ・センサーについて説明すると…
「BLEACH」における浦原喜助ポジション
すなわち、表向きは主人公サイドに組していながらも、
飄々として、腹に一物も二物も抱えており、
なおかつ、敵味方問わず絶大な影響力を持っているタイプ…
そういうキャラクターに対しておれは、
反抗心を抱くとともに、どこか無視できない関心を寄せてしまう。
つまり、なかば無意識にウラハラ・センサーが働くのです。
たぶん、エディプス・コンプレックスの一種だと思うんだけど…

で、「AURA」における浦原ポジションは誰かというと、
もう読まれた方はおわかりかと思いますが、
そうです。「どりせん」です。
どりせんのウラハラ指数はマジでハンパない。
ものすごいデウスエクスマキナっぷりを発揮している。
主人公はしょせん、どりせんというお釈迦様の手の中で
戯れているサルに過ぎないんじゃないかと思えるくらい。
こいつは、ともすれば「イリヤの空」の榎本たりえる
キャラクターなんじゃなかろうか。
実際、どりせんがレディス佐藤にメンズ佐藤をあてがうのは、
「イリヤ」における「子犬作戦」以外のなにものでもない。

なので、前評判からして邪気眼経験者には
読むのがつらい作品とはきいていたけど、
どりせんが作中において榎本のように罰せられればビター
罰せられなければマイルド、という基準で読み進めていたら、
マイルドどころかダダ甘状態だったのでちょっとおどろきました。

最後の最後で、どりせんが邪気眼の大先輩であることを
カミングアウトし、主人公たちのクラスに
邪気眼が多いのも、彼が権力を行使して、
そういう生徒ばかりを集めていたからだという…
正直、ここまで「干渉」してくる
キャラクターだとは、思ってもみなかった。

おれはここに、妙に引っかかった。
たとえるなら「フルメタ」で、岩清水が
宗介のかわりにアマルガムを
壊滅させちゃいました、みたいな。
あるいは「イリヤ」で、水前寺が
「北」の脅威を退けました、みたいな。

これは、そのような「越権行為」なんじゃなかろうか…

ラストでヒロインがせっかく「猊當稔瓩里笋衒、おしえて」
決意して終わるのに、それもけっきょくは、どりせんという
普通じゃない存在の、得体の知れない権力の庇護のもとにある。
ここらへんが、読後感がすっきりしない要因のひとつかもしれません。

とはいえ、ビターな展開を想像し出すと、
どりせんも子鳩さんも清水も久米もみんなグル
みたいな救いもなにもあったもんじゃない
悲惨な話にしかならなくなるので、たぶんこれが
いちばん適切な落としどころだったんだと思います。
でも、おれ、どりせんが担任のクラスはいやだなあ…

JUGEMテーマ:読書
posted by: アダチアタル | 本の感想 | 22:22 | comments(0) | - | - |

ばけらの! (GA文庫 す 2-1)

杉井 光
ソフトバンククリエイティブ
¥ 620
※本編のネタバレを含みます

イヅナかわいいよイヅナ。
とあるライトノベルレーベルからデビューした新人作家・杉井ヒカル。彼を取り巻く先輩や同期の作家たちは、驚くことにみんな美少女だった!

――人間じゃないけど!!

ヒカルが住むアパートでは、株やパチンコに熱中する不良管狼作家イヅナや、ちっちゃな少女の姿でエッチなラブコメ作品を世に送り出す座敷童作家ツバサが、今日も元気に玉稿を執筆中……執筆してるはず!

「――羊はいいよ。羊だけは俺を裏切らないんだ。クリックすると必ず羊毛がとれるんだから」

怖い編集に迫る締切。そんなときに限って起きるちょっとした事件!
刺激いっぱいのラノベ作家生活、キミも一緒にはじめてみない?

という、おおよそこの内容紹介どおりのまったりラブコメで、
斉藤千和の声でしゃべりそうな
口は悪いがじつは甘えっ子なイヅナが
激しく萌える
わけですが、ラストはちょっぴりせつないなあ…

主人公である杉井ヒカルは、とある事情で
この世から消えてしまいそうになるイヅナを、
自らの小説によって(イヅナとの日々を小説に仕立てることで、
イヅナの存在をみんなの心にとどめてもらうことで)、
救おうとするのですが、その「小説」こそが
なにを隠そうこの「ばけらの!」なわけです。

ややこしいので、少し失礼なたとえ話をすると、
もしこの「ばけらの!」の売り上げがあんまり芳しくなければ、
イヅナはこの世から消えてしまうかもしれないのです!

(あくまで虚と実を混同した場合の話ですが)

というわけで、そういう事情から、本来この「ばけらの!」が
出版された以降の出来事を作中で書くことはできないはず
なのですが、こちらでも指摘されているとおり、
主人公の杉井ヒカルが書いたとされる「あとがき」がちょっと
変なことになっている。あとがきは八月に書かれたことになっている
のに、そのあとがきには九月までの出来事が書かれてあるのです。


おれはここに作者の誠実さを感じます。もしベタベタなハッピーエンド
にしようと思えば、あとがきじゃなく本編で「ばけらの!」がヒットして
イヅナが消えずに済んだ、というところまで書くこともできる
わけです。
しかし、作中の「ばけらの!」≒本書なわけで、
そんな先のことまで書いてしまうと、それはウソになる。
別にフィクションなんだからウソをついたってぜんぜんかまわないはず
なんだけど、そのウソはキャラクターに対して失礼にあたる。
あの「あとがき」のは、だから、「杉井ヒカル」の祈りをこめた
精いっぱいの「フィクション」だと推測するのですが、
そう思うと余計せつなさが増します…

というわけで、
みんな「ばけらの!」買ってね!
元気なイヅナにまた会いたいから!

JUGEMテーマ:読書
posted by: アダチアタル | 本の感想 | 18:58 | comments(0) | - | - |

よつばと! 8 (8) (電撃コミックス)

あずま きよひこ
アスキー・メディアワークス
¥ 630


やんだの声が鈴村健一で脳内再生されるのは
おれだけじゃないはずだ!



JUGEMテーマ:漫画/アニメ
posted by: アダチアタル | 本の感想 | 19:19 | comments(0) | - | - |

ビアンカ・オーバースタディの読書感想文

※「ビアンカ・オーバースタディ」のネタバレを含みます





第1話「哀しみのスペルマ」
哲也くんがビアンカ様に手コキしてもらう話

第2話「歓びのスペルマ」
哲也くんがビアンカ様に手コキしてもらう話

第3話「怒りのスペルマ」
哲也くんが耀子に手コキ…

…って、ほんとにこのままつづいたらどうしよう
と思ってたら、第3話の終盤から驚愕の超展開が。
いつもの筒井先生っぽくて安心しました。

各話の出だしは、
 見られている。
 でも、気づかないふりをしていよう。
 気づかないふりをしていると思われてもかまわない。
 いつも見られているから平気なんだと思わせておけばいい。

という、ビアンカ様の「男たちからの『視線』の自覚」からはじまる。
ここに限らず、同じ文章がたびたび反復される手法は、
『ダンシング・ヴァニティ』でもやっていたこと。
で、その「見られている」ビアンカ様が、研究のために
哲也くんの精子を顕微鏡で観察することで「見る」側に回る。

というつまらない読解をあざわらうかのように、
第3話でなかばとうとつに「未来人」のノブが登場する。
「わたしはずっと前、ちっちゃな頃から、宇宙人だの未来人だのが、わたしの前にあらわれてくれることを待ち望んでいたような気がするの。そしてわたしを、この退屈な、フツーの女の子の生活から、この退屈な、男の子っていったらフツーの男の子しかいない現実から、どこか超現実的な、わくわくする世界へつれて行ってくれることを乞い願っていたように思うの。だからこそ、宇宙人や未来人の出現があたり前のように思いはじめていて、実際にあらわれても平気でいられるように、いつの間にか自分を訓練してたんだと思うわ」
これは一見ハルヒの独白そのものなのだが、実際は少し違う。
ハルヒは長門やみくるや古泉が宇宙人や未来人や超能力者
であることを知らないから。その点、ビアンカ様はしたたかだ。

そもそも、この物語はビアンカ様の視点で語られる。
パプリカにしても七瀬シリーズにしても、女視点で
男たちの生態をセキララに暴き立てるのが筒井作品の
魅力のひとつなので、そこが楽しみであると同時に、
ハルヒシリーズがキョンの視点で語られることによって
巧妙に隠しおおせていたギャルゲー的なウソの部分を、
どう筒井先生が「破壊」してくれるか、いまからwktk。

今回の連載は第3話まで。つぎのファウストなんて
いつ出るかわからないような代物は待っていられないので、
早いところ単行本で出してくれないものだろうか。

追記:「ウブメ効果」ってw ハルヒだけじゃなくて京極も読んでるのか。

JUGEMテーマ:読書
posted by: アダチアタル | 本の感想 | 17:29 | comments(0) | - | - |

凡人として生きるということ (幻冬舎新書 (お-5-1))

大魔導師かく語りき

押井監督がぶっちゃけてくれました。
ある意味「電波男」も目じゃない喪男論だと思います。
目次はこんな感じ。


第一章 オヤジ論――オヤジになることは愉しい
第二章 自由論――不自由は愉しい
第三章 勝敗論――「勝負」は諦めたときに負けが決まる
第四章 セックスと文明論――性欲が強い人は子育てがうまい
第五章 コミュニケーション論――引きこもってもいいじゃないか
第六章 オタク論――アキハバラが経済を動かす
第七章 格差論――いい加減に生きよう



すごいですよね。小見出しもすごいです。


・若さに価値などない
・「ウソをついてはいけない」というウソ
・オヤジを目指して生き抜け
・「人間は自由であるべき」という欺瞞
・ロリコンは人類によって「発明」された
・無数に多様化した性欲
・僕は引きこもりだった
・友だちなんか、いらない
・虚構の世界の美しい友情
・四十歳の童貞は大魔導師になる
・アニメ世界に遊ぶ、という現実的な生き方



ごらんのとおり、「オヤジ」から「若者」に向けた
メッセージという体裁をとっていますが、
ここでいう「若者」は男子限定です。
もっと厳密にいえば「若いオタク男子」
向けて書かれていると思ってまず間違いないです。

いろんな意味で激しく読者を選ぶ本だと思うし、
対象となっている読者が
この本をガチで読み込んだ場合、
はげまされるか、絶望するか
限定二択のような気もします。

おれもゆくゆくは
パトレイバーの後藤隊長のようにゆるく生きたい
と思っているくちなので、なかなかおもしろく読めました。

喪男だの大魔導師だのといっても、実際のところ
押井監督は結婚、離婚、再婚の経験者であり、
二年まえ乙一と結婚した娘さんもいるわけだし、
そこらへんも踏まえたうえで、
軽い気持ちで読むのが吉かと思います。

押井作品の半分はDT力でできているのは間違いないですが。

JUGEMテーマ:読書
posted by: アダチアタル | 本の感想 | 18:33 | comments(0) | - | - |