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終焉をめぐって (講談社学術文庫)

「終末論」からの連想で
「終焉をめぐって」を再読中。
以下、備忘録的にメモ。
昭和四十年以後、いわば東京オリンピック以後、「昭和」や「天皇」の意識が希薄化したのは、ちょうど日露戦争後の言説空間が、ある達成感ともに内面化していったのと同じである。すでにいったように、この「内面化」はコスモポリタニズムと矛盾しない。事実として国際化し且つ「世界的同時性」の意識をもちながら、「外部」が失われたのである。だが、われわれの意識においてその変容が決定的になるためには、決まって何か象徴的な事件が必要であるようだ。マルクスは「悲劇はわれわれが過去と陽気に決別するためにある」といったが、一九七〇年の三島由紀夫の死はそのようなものとしてあるといってよい。
 われわれは三島の行動に2・26の叛乱の犧童臭瓩鮓がちであるが、むしろ明治四十五年における乃木将軍の殉死を想起すべきなのである。
また、漱石の「こころ」の次のような部分を引いてから、
 私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものとみえます。妻の冗談を聞いてはじめてそれを思い出した時、私は妻に向かってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えもむろん冗談にすぎなかったのですが、私はその時なんだか古い不要な言葉に新しい意義を盛りえたような心持ちがしたのです。
柄谷は以下のように述べる。
(略)たとえば、「殉死」はこの時期「冗談」としてしか語りえない「古い不要な言葉」にすぎなかった。(ちなみに私は、三島由紀夫が実際に死ぬまで、彼のいっていることを「冗談」だと思っていた。)

……と、ここまで長々と引用したのも、
この柄谷の三島に関する言及を、「終末論」に引きつづきいて、
「コードギアス」に引き寄せて読んでいたからで、
おれもルルーシュが死ぬ(ゼロレクイエム)まで、
彼のやっていることを「ネタ」だと思っていた
からだ。

「ゼロとルルーシュ/三島由紀夫(ペンネーム)と平岡公威(本名)」
「黒の騎士団/盾の会」「ゼロレクイエム/自決」

と、ルルーシュと三島の類似点をあげてもいいが、
むしろ重要なのは相違点のほうだと思う。
なにしろルルーシュは、笠井潔に
「ゼロ年代のラスコーリニコフ」
といわしめた男だからなw

ただ、コードギアスが果たして「仮面の告白」だったのか
「罪と罰」だったのかという問題は、サブカルチャーにおける
ひとりのテロリストの死として、考える価値はあるかもしれない。
(たとえば、ルルーシュはユーフェミアに「殉死」したといえるのか、とか)

JUGEMテーマ:読書
posted by: アダチアタル | 本の感想 | 03:00 | comments(0) | - | - |

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