というようなことを、
「とらドラ!」のアニメ第1話を観ていて思った。
どちらも主人公の男の子が「不良もどき」で
クラスから孤立ぎみであり、
ヒロインと共依存的な恋愛を繰り広げるところは同じ。
「美鳥の日々」なんかもそうだったな。
しかし、「とらドラ!」ではヒロインが主人公を
「犬」と呼び、
「電波的な彼女」ではヒロインが主人公の
「下僕」であると宣言する。
まったく正反対。でも、やっぱりそれはコインの裏表で、
不器用でまっとうな人間関係を構築できない主人公とヒロインが、
「主従関係」という極端な関係性から、
じょじょにまっとうなラブコメ模様を描いていく…かと思いきや、
「電波的な彼女」は
そんな生易しいものじゃないんだよなあ。
「電波」の場合、表面上は主人公が「主」でヒロインが「従」なんだけど、
精神的に主導権を握っているのは「従」であるはずのヒロインのほう。
これは「月光の囁き」のSとMの関係にも似ている。
「電波」の主人公は
ヒロインの言葉をまるで福音のように引用するのだが、
その回数がシリーズを追うごとに増えている気がする。
これは完全に
ヒロインによる調教が成功している証拠だと思う。
怖いのは「電波」の作者がそれをどこまで意図してやっているのかというところ。
無意識だとすると、このさきどんどんシリーズが書きづらくなるはずなので…
そういえば、「とらドラ!」も「電波」も、
主人公の母親がいわゆる「母性的」な存在じゃないところも
共通してるっちゃしてるわなあ。
これは、主人公とヒロインの関係性が特殊であることと
無縁じゃないと思う。
「電波的な彼女」もこんどアニメ化するとのうわさなので
非常に楽しみ。もちろん、「とらドラ!」の今後も。
それにしても、「とらドラ!」といい「ヒャッコ」といい、
キツネの次はトラの時代なのか。