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あずまんが大王新装版から消えた男子生徒のこと

あずまんが大王の新装版を読みました。
なんかアレですね。
新訳Zガンダムみたいですね。(絵柄的な意味で)

新旧の比較は、すでに多くの方が
検証されていると思いますが、
自分がざっとよんでいちばん気になったのは、



これ!
左側が新装版なんですが、
男子生徒が女子生徒に変わっています。
ここは別に男子生徒のままでも良いはずなのに…
ちなみに、アニメ版でもこのネタは
男子生徒だったと記憶しています。

よくよく調べてみると、
新装版ではほかにもけっこう
男子生徒の存在が抹消されている
ことが分かります。
一貫した意図による変更と思われます。

これを機に旧版も読み返してみたところ、
2巻の時点ですでに、ほとんど
男子生徒の出番はありませんでした。
舞台は共学なのに、女子高と
誤解されることが多いのもうなずけます。

のちの、いわゆる「萌え4コマ」のフォーマットから
考えても、この男子排除の理論は
あるていど歴史(?)の必然だったように思います。
あ、なんかジャンプと逆だな…

とりあえず
木村先生が存在ごと
抹消されてなくてよかった

と思いました。
(あずまきよひこ先生は抹消したかったのでは、と邪推しますが。)

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posted by: アダチアタル | 本の感想 | 00:14 | comments(0) | - | - |

文庫版 邪魅の雫 (講談社文庫)

文庫版「邪魅の雫」の
解説が西尾維新な件。


頼んだ人間はいったいどういうつもりなんだろう。
断らなかった西尾維新先生は偉いと思う。
西尾氏は京極式に版面にこだわったりして
(文がページをまたがない)、あいかわらず
器用ではあるのだが、やはり本編の内容には
まったく触れていなかったなあ。

おおざっぱな事情はこちらの記事で。

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posted by: アダチアタル | 本の感想 | 21:23 | comments(0) | - | - |

とらドラ10! (10) (電撃文庫)

アスキーメディアワークス
¥ 536
(2009-03-10)
泰子ーッ!俺だーッ!結婚してくれー!

最終巻は、ほとんど高須「家出少女」泰子の成長物語でしたね。
やっちゃんかわいいよやっちゃん。
小一時間ほど、どうやったらやっちゃんと結婚できるか悩みました(ぇ

それにしても、やっちゃんが竜児を産むに至った背景を考えると、
ケータイ小説ばりの恋愛ストーリーがあったはずで、
そう考えながら読むと、「とらドラ」は本来ラノベではあつかいづらい
テーマをわりと真正面からとらえた作品だと思う。

とくにそれ感じるのは、「家族」の有り方に関する描写。

 泰子のエゴイスティックな保護欲と、それに応えなくてはそもそも存在する意味さえないと思える空虚な自己像が竜児の前に立ちはだかった。

 母親の守る家という居場所を捨てると決めて走り出した時には、この手は大河を掴んだ。

 捨てられたのは、自分だ。
 泰子は自分が捨てた家に、今度は竜児を、捨てたのだった。

ここまではっきりとインナーマザー(子どもの心を支配する母)
をラノベで描けるゆゆこ先生はマジですげぇ。

きわめつけは次の一文。

だって、世代の絆の繋ぎ方を、我々は知らない。

おれにとって、この「我々」はかなりのインパクトがある。
その唐突さや違和感はともかくとして、
そこにおれも含まれるんじゃないか、というような意味において。

オタク的には「母」の負の部分を描くのは
NGかと思っていたけど、「とらドラ」の人気を見ていると、
そんなことないんだなあと感じる。
むしろ、オタクが忌避しているのは
「妻」(リアル嫁)という存在なのかもしれない。
「CLANNAD」において、渚が汐を産んだと同時に
死ななければならなかったように、
「妻」のなかでもとくに、自分が「父」だという自覚を迫る
「子」の「母」としての「妻」
を描くことは、
オタク向けの作品で描くことはきわめてむずかしい。

以前このエントリーでちょこっと書いたけど、
ニート・ひきこもり・喪男の先駆者たる
江戸川乱歩は、胎内回帰的なユートピアを描くいっぽうで、
「妻」としての女というものを激しく憎悪し、恐怖する。

ほんと「○○は俺の嫁」なんて、
絶対に不可能だとわかっているからこそ
口にできる言葉だよなあ。

それはつまるところ、こういうことなんだろうか……

爐世辰董∪ぢ紊励の繋ぎ方を、我々は知らない。


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posted by: アダチアタル | 本の感想 | 13:41 | comments(0) | - | - |

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

森見 登美彦
角川グループパブリッシング
¥ 580
(2008-12-25)
解説の羽海野チカ先生のイラストに惹かれて買ったんだけど、
これはおもしろかったなあ。ライトノベルが中高生のための
エンターテインメントだとすれば、これはおもに大学生や
若い社会人のためのエンターテインメントだと思った。

すごくファンタジックでロマンティックなラブストーリー
……というか、「まだ恋は始まらない」状態だから、
正確にいえばラブ「未満」ストーリー。
冴えない大学生の「私」が画策する、
なるべく「彼女」(黒髪の知的好奇心旺盛乙女)の目に
とまる作戦……通称「ナカメ作戦」の顛末紀で、
「私」と「彼女」の一人称で交互に語られる。
その「すれ違いっぷり」がこの作品のひとつのキモ。

「私」からすれば取るに足らない石ころみたいな「日常」も、
「彼女」の目を通してみると、キラキラひかる宝石に見える。
そのギャップがうまく描かれていて、おれ自身も否応なく
「彼女」に魅了されてしまう。文体が独特なので最初は
若干の抵抗感もあったが、慣れるとそれも「非日常」へと
いざなうための演出として機能する。

この作品を通して語られるのは、
「すべてはつながっている」
というテーマだと思った。
第二章で「古本市の神様」が披露する、
あらゆる本をつなげるエピソードしかり。
この作品を読んでいると「ご都合主義も悪くないよなあ」
そして「人生も悪くないよなあ」と思えてくる。
あと、無性に酒が飲みたくなってくる(笑)。


これはマンガやアニメにしてもよさそう、と思ったら、
すでにコミカライズされているらしい。さすが角川。
アニヲタの習性として、ついつい脳内キャスティング……

彼女:広橋涼
羽貫さん:雪野五月
樋口さん:遊佐浩二

「私」が意外とむずかしいよなあ。杉田智和だと
まんまキョンになってしまうおそれもあるし。
ともあれ、アニメ化するならノイタミナ枠が最適かと。

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posted by: アダチアタル | 本の感想 | 17:50 | comments(0) | - | - |

終焉をめぐって (講談社学術文庫)

「終末論」からの連想で
「終焉をめぐって」を再読中。
以下、備忘録的にメモ。
昭和四十年以後、いわば東京オリンピック以後、「昭和」や「天皇」の意識が希薄化したのは、ちょうど日露戦争後の言説空間が、ある達成感ともに内面化していったのと同じである。すでにいったように、この「内面化」はコスモポリタニズムと矛盾しない。事実として国際化し且つ「世界的同時性」の意識をもちながら、「外部」が失われたのである。だが、われわれの意識においてその変容が決定的になるためには、決まって何か象徴的な事件が必要であるようだ。マルクスは「悲劇はわれわれが過去と陽気に決別するためにある」といったが、一九七〇年の三島由紀夫の死はそのようなものとしてあるといってよい。
 われわれは三島の行動に2・26の叛乱の犧童臭瓩鮓がちであるが、むしろ明治四十五年における乃木将軍の殉死を想起すべきなのである。
また、漱石の「こころ」の次のような部分を引いてから、
 私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものとみえます。妻の冗談を聞いてはじめてそれを思い出した時、私は妻に向かってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えもむろん冗談にすぎなかったのですが、私はその時なんだか古い不要な言葉に新しい意義を盛りえたような心持ちがしたのです。
柄谷は以下のように述べる。
(略)たとえば、「殉死」はこの時期「冗談」としてしか語りえない「古い不要な言葉」にすぎなかった。(ちなみに私は、三島由紀夫が実際に死ぬまで、彼のいっていることを「冗談」だと思っていた。)

……と、ここまで長々と引用したのも、
この柄谷の三島に関する言及を、「終末論」に引きつづきいて、
「コードギアス」に引き寄せて読んでいたからで、
おれもルルーシュが死ぬ(ゼロレクイエム)まで、
彼のやっていることを「ネタ」だと思っていた
からだ。

「ゼロとルルーシュ/三島由紀夫(ペンネーム)と平岡公威(本名)」
「黒の騎士団/盾の会」「ゼロレクイエム/自決」

と、ルルーシュと三島の類似点をあげてもいいが、
むしろ重要なのは相違点のほうだと思う。
なにしろルルーシュは、笠井潔に
「ゼロ年代のラスコーリニコフ」
といわしめた男だからなw

ただ、コードギアスが果たして「仮面の告白」だったのか
「罪と罰」だったのかという問題は、サブカルチャーにおける
ひとりのテロリストの死として、考える価値はあるかもしれない。
(たとえば、ルルーシュはユーフェミアに「殉死」したといえるのか、とか)

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posted by: アダチアタル | 本の感想 | 03:00 | comments(0) | - | - |

増補 虚構の時代の果て (ちくま学芸文庫)

「終末論」について考えていたら、ちょうどいま読んでいる本に
そのようなことが書かれていて、ちょっとシンクロニシティ。
 翻って考えてみると、終末論を唱える他の新新宗教においても、あるいはまた終末のヴィジョンを描く同時代のサブカルチャーにしても、オウムほどには明白ではないにせよ、終末論が真に指向していることは、終末後の完全な秩序よりもまずは、世界そのものを終末へと導く破局ではないのか、と問いたくなる。
よく考えてみれば、オウムに震災に911ときて、
もはやそんなご時世に「終末論」とかいわれても、
今そこにある危機のほうが問題だろ
ってことになったわけだよな……

だから、本書が書かれたころとはまた世相が変わって、
たとえばギアスやダブルオーなんかを観ていると、
終末(戦争)以降の新しい秩序(「千年王国」的な理想
ではなく、百年単位の短いスパンの平和)を、少なくとも
サブカルチャーの領域では模索しはじめている気はする。



ただ、オバマ大統領の就任式にUFOが出現!?みたいな
ニュースが流れたり(ただしソースはザ・サンwww)、
大統領のアクションフィギュアがバカ売れしたり、
さらにマヤの予言のようなものが出てきて映画化されたり、
あちらの国ではふたたびキナ臭い方向へと
揺り戻しが起きているのかもしれない。
マヤの預言(2012年12月)が向こうでもてはやされるのも、
オバマの任期終了(2013年1月)と無縁ではないかも……
そういえば、柄谷も「終焉をめぐって」で、
元号(天皇)と時代の区切りについて書いていたような。

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posted by: アダチアタル | 本の感想 | 00:55 | comments(0) | - | - |

電波女と青春男 (電撃文庫)

入間 人間
アスキーメディアワークス
¥ 578
※映画「金髪の草原」のネタバレを含みます

電波少女はなぜ飛ぼうとするのか?

「NHK」の岬ちゃんも「AURA」の良子ちゃんも、
この「電波女と青春男」のエリオちゃんも、
みんな飛ぼうとする。そして、失敗する。
当然だ。人間に翼はないのだから。

と、ふとここで「金髪の草原」という映画を思い出す。
あの映画もやっぱり、最後で「電波」な人が飛ぼうとする。
でも、「金髪」の場合、飛ぶのは「少女」ではない。
おじいちゃんだ。
ここで「金髪」のあらすじを紹介すると、
ある日、日暮里さんというおじいちゃんのところに、
なりすという十八歳のヘルパーさんがやってくる。
ところが、この日暮里さんは、自分がまだ二十歳だと
思い込んでいて、なりすちゃんに初恋の人の面影を
重ねてしまう。で、しばらく日暮里さんとなりすちゃんの
へんてこな共同生活がつづくのだが、あるとき、
日暮里さんは自分が二十歳ではなく八十歳の老人だと
気づいてしまう。「夢」からさめてしまうのだ。
しかし、その「現実」を受け入れられない日暮里さんは、
まだ「夢」はつづいていると信じ、これが「夢」ならば
空も飛べるはずと信じ、家の屋根から、飛ぶ。

この日暮里さんが「飛ぶ」シーンがおれはとても好きで、
ものすごいカタルシスを感じてしまうのだが、冷静に考えれば、
これは世間一般には「お年寄りの飛び降り自殺」としか見えないだろう。

というわけで、「金髪の草原」は、電波少女たちとは違い、
電波おじいちゃんがホントに飛び、死んでしまう話なのだ。
「電波」とは、宇宙でも異世界でもなんでもいい、
「彼岸」(≒「死」)の世界に憧れるさまをいうのだろう。
でも、電波少女たちはなんだかんだで、「あっちがわ」
には行かない。たいてい主人公の男の子が、「こっちがわ」
につなぎとめて終わる。「NHK」も「AURA」も。
この「電波女」でもそうだった。
もしかしたら、「ハルヒ」もそのようにして終わるのかもしれない。

しかし、果たしてホントに「電波」なのは少女たちのほうなのだろうか?
この手の作品を読んでいて感じるのは、いちばん問題を抱えているのは、
「電波少女」を通じて「彼岸」をかいま見たいという
抑えがたい欲望を抱えている、男の子たちのほうなんじゃないか、
ということだ。電波少女を「こっちがわ」に引きとめようとしている
男の子の立ち位置は、本当に「安全地帯」なんだろうか?
滝本竜彦が「NHK」のラストで「ウソ」を書いてしまったと感じ、
それ以降ほとんど創作活動ができなくなってしまった理由の一端も、
ここにあるんじゃないかと思う。

「金髪の草原」を観て日暮里さんに激しく共感してしまう
おのれへの自戒の意味もこめて、こう問わずにはいられない。
おまえはホントに「こっちがわ」の人間なのか?と。

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posted by: アダチアタル | 本の感想 | 21:10 | comments(0) | - | - |

新潮 2009年 01月号 [雑誌]

佐藤友哉「デンデラ」

これって「スカイ・クロラ」ですよね?
パクリとかそういう意味じゃなくて、構造的に。
「羆」=「ティーチャー」とすると、
ラストで主人公の斎藤カユがとる行動も、
「スカイ・クロラ」(映画版のほう)の
ラストで主人公のユーヒチがとる行動とダブる。

読後に感じる「これってじつはなんの解決にも
なってないんじゃないの?」感もスカイ・クロラ
と通じるものがある。死んでどうする、みたいな。

しかし、裏を返せば、押井守が原作を改変してまで
あのラストを描いたように、ユヤたんもこのラスト
をえらぶことでしかこの作品を終わらせられなかった
んだろうなあ、という気はする。すなわち、

「主人公が不条理な〈システム〉に特攻して死ぬ」

という、ある意味投げっぱなしな結末によって。
〈システム〉に「殉死」するくらいなら「特攻」せよ、
ってことなんだろうか。俺(主人公)はこれだけ
やっとから、あとはおまえらがバトンを受け取れよ、
ってことなんだろうか。両作品ともに、どうにもすっきりしない、
もやもやが残る結末なんだけど、そのもやもやを
解き明かしていくのが、われわれ読者の役目……
と考えるのは、あまりにお人よしすぎるような。

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posted by: アダチアタル | 本の感想 | 18:57 | comments(0) | - | - |

ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

「一緒に死のう、この世界に抵抗するために――」
 御冷ミァハは言い、みっつの白い錠剤を差し出した。21世紀後半、〈大災禍〉と呼ばれる世界的な混乱を経て、人類は医療経済を核にした福祉厚生社会を実現していた。誰もが互いのことを気遣い、親密に“しなければならない”ユートピア。体内を常時監視する医療分子により病気はほぼ消滅し、人々は健康を第一とする価値観による社会を形成したのだ。そんな優しさと倫理が真綿で首を絞めるような世界に抵抗するため、3人の少女は餓死することを選択した――。
 それから13年後、医療社会に襲いかかった未曾有の危機に、かつて自殺を試みて死ねなかった少女、現在は世界保健機構の生命監査機関に所属する霧慧トァンは、あのときの自殺の試みで唯ひとり死んだはずの友人の影を見る。これは、“人類”の最終局面に立ち会ったふたりの女性の物語――。『虐殺器官』の著者が描く、ユートピアの臨界点。

とても静謐で、切実な、祈りのような物語。

正直いって、最初は少しあなどっていた。
またこのパターンか、と。オッサン(失礼)が「少女」に仮託して
自らのセンチメンタリズムをぶちまける、大塚英志的なアレか、と。
実際、序盤のヴァージンスーサイズ、少女たちの心中(未遂)事件は、
夏目エリスを連想させる(というたとえも相当わかりにくいが……)

だから、『魍魎の匣』の柚木加奈子のように、
あるいは『絡新婦の理』の織作碧のように、最終的には
御冷ミァハのカリスマは解体されるのだと思っていた。
なんだかんだいって、ハルヒみたいに、ちょっと痛い
フツーの女の子(事実ミァハは「ただの人間には興味が
ないの」
とうそぶく)だったということが明らかになって
無難に着地するのだと思っていた。でも、その予想は
気持ちいいくらいに裏切られた。クライマックスにおいて、
ミァハ様は圧倒的な存在感で再臨し、本当に「意識」が
飛ぶような衝撃的な結末をもたらし、逝ってしまわれた。
「語り手」の霧慧トァンと同じく、おれ自身もまったく
といっていいほどなすすべがなかった。あと十歳若かったら、
影響受けすぎて自意識がヤバいことになっていただろうと思う。
読後五分くらいは、ただただため息をつくしかなかった。
こんな打ちのめされる読書体験はひさしぶりだった。

冷静になって考えてみると、この作品は前作の『虐殺器官』と
合わせ鏡になっている。語り手の性別、世界観、そして結末
に至るまで、さまざまな点においてきれいに対をなしている。
しかし、あえていえば、これで終わっていいのか、という
気持ちはある。この『ハーモニー』の終幕はたとえようもなく
美しく、時間軸的に『虐殺器官』のあとにあたる物語であることを
踏まえたとしても、単体の作品として充分に完結しているのだが、
それでも、この作品はたとえば「N部作の二作目」なんじゃないか、
というような邪推をしたくなってしまう感触がないこともない。

以下、雑感。

一瞬、清涼院流水かと思ったw

男性作家の女性一人称モノはきらいじゃない。
太宰の女学生モノは個人的にあまり肌に合わないけど、
作中でも言及されている安吾の女性一人称はキュートでじつに萌える。
「青鬼の褌を洗う女」とか「私は海を抱きしめていたい」とか。

新城カズマの「サマー/タイム/トラベラー」といっしょで、
語り方自体に必然性というか意味があるのが憎いところ。

これ、押井監督に映像化してほしいなあ……
「犯人」が最初に自殺しているところとか、劇パト1のホバだし。
インターポールの名刺男の役回りは、まんま劇パト2の荒川だし。
あと、「首席」の声優はぜひとも榊原良子様で!



追記:『虐殺器官』刊行当時の著者インタビューより
『虐殺器官』に登場する「虐殺の文法」について――
だから「解毒剤」がつくられるとしたら、それは「文法」に対する解毒剤というよりは、完全平和状態、完全理性状態を人類にもたらすような、ある意味で「文法」の鏡写し、それはそれで想像するとちょっと恐ろしい別世界をつくりあげるツールになるでしょうね。
この時点で、『ハーモニー』は予言されていたんだな。

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posted by: アダチアタル | 本の感想 | 22:20 | comments(0) | - | - |

ユリイカ 増刊号 総特集=初音ミク

初音ミクは「100パーセント所有できるけれども、所有した対象に対して何の責任も取らなくてよい」というところに、妙な感覚があるような気がしています。――平沢進
正直いまさら感は否めない特集ですが、
そして、事実座談会とかすごくgdgdな内容だったのですが、
平沢進のインタビュー記事! これはすごくおもしろかった!

男性の抱く理想の女性性の話、バーチャルアイドルが流行らなくて
なぜ初音ミクは当たったのかという話、女装ブームの話、
著作権の話、などなど……興味深いネタてんこもりでした。

平沢さんは実際自分の楽曲にMEIKO姉さんとか使っているらしく、
実作者の立場から、しかし、少し一歩引いた目線で、
冷静に「ボーカロイド」というものを捉えていて、それが
このインタビューのおもしろさにつながっているんだと思います。

上で引用した部分も、ミクを調整することを「調教」といってしまう
感覚を的確に表現しているように感じます。「調教」という言葉に
関しては、以前ちょっとした論争があったような……
この件については、また調べてから記事を書くかもしれません。

JUGEMテーマ:VOCALOID2
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posted by: アダチアタル | 本の感想 | 16:21 | comments(0) | - | - |